Vol. 177 特集

日本語と私:後編 - 日本語スピーチコンテスト -


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 数ある言語の中でも、特に習得が難しいと言われる日本語。にも関わらず、日本語の習得に情熱を持って取り組む若者が、ニュージーランドにもいます。日頃の成果の発表の場として開催されている「Tertiary Japanese Language Speech Contest」(Japanese Studies Aotearoa New Zealand主催)の2016年大会が開かれ、このほど審査結果が発表されました。国内の7大学から選抜された12人のファイナリストのうち、1〜3位に輝いた3人のスピーチ内容と受賞コメントを紹介します。
※スピーチ内容は原文のまま掲載しています。

Japanese Studies Aotearoa New Zealand (JSANZ)

 2013年6月、ニュージーランドの高等教育機関における日本語教育と日本文化研究の推進、強化を目的に、国内の高等教育機関の日本語教育の代表者と協賛者によって設立。コンテストは年に一度、国内の高等教育機関で日本語を学ぶ学生を対象に開いている。題材は自由で、4分半〜5分の制限時間内でスピーチをし、聴衆からの質問に答える。言葉の流暢さや発音、文法のほか、内容の独創性、一貫性なども評価の基準となる。取材協力:Dr. Masayoshi Ogino (University of Canterbury/Chair of the JSANZ Speech Contest Committee)

第1位

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「僕の日本語とのジャーニー」

Nathaniel Carter(University of Auckland)

受賞コメント:
 実は今でも自分がスピーチコンテストで優勝したことが信じられません。結果を知って「やっと夢が叶って日本に行ける!」と思い、嬉しさで胸がいっぱいになって泣いてしまいました。今まで諦めずに日本語を続けてきて本当に良かったです。

 今日は僕の日本語とのジャーニーについて話したいと思います。僕はまだ20歳ですが、今までの人生には苦しいことがたくさんありました。僕は兄弟が10人もいる家庭に生まれましたが、2歳の頃、両親が離婚してしまい、その後色々な街を転々として14回も転校しました。同じ学校に2年いたことがありません。だから、友達を作ろうとする努力さえしなくなってしまいました。そんな僕を支えてくれたのが日本語です。
 日本語と出会ったのは11歳の頃でした。インバーカーギルの学校で日本語を勉強させられたからです。ぼくが選んだわけではありません。その頃の僕にとって日本語は難しい言語でひらがなさえ暗記できませんでした。だから、そのころの僕にとって日本語の印象はあまりよくありませんでした。
 それから、オーストラリアのダーウィンに移り住みました。ダーウィンの中学校で日本語をもう一度勉強し始めた時は、学べば学ぶほど知らない日本語が増えることに気づいて悲しくなったほどです。でも、ある日、日本語の先生がアンジェラ・アキの桜色と言う曲をビデオで聞かせてくれました。その時、すべてが変わったのです。まずやさしいピアノの音が聞こえて、桜の美しい花びらが落ちる様子と「桜色のあなたを忘れない、ずっと」と言う歌詞にすごく感動しました。今でもそのイメージが忘れられません。また、アンジェラ・アキの歌声は素敵で、とても表現力が豊かだと思いました。日本語に興味を持って、やる気を出せたのはその日本語の歌との出会いのおかげだと思います。それからは日本語は学べば学ぶほどおもしろくなりました。
 その後も転校が続きましたが、日本語がずっと僕を支えてくれて、14才の時から夢に見ていた医学部に入ることができました。だから、現在大学で日本語のコースを取りながら、医学も勉強しています。スケジュールは大変ですが、日本語はとても大切なので、日本語を習い続けられるように、大学を卒業した後の計画を色々考えています。例えば、十分話せるようになったら、医者として日本の病院で働きたいです。まだ一回も日本に行ったことがありませんが、日本語との将来に希望を持っています。
 今まで何度も高い壁を乗り越えた僕にとって唯一の支えは日本語です。これからもどんなことがあっても、日本語を勉強し続けたいです。
 最後に14才の僕にはわからなかったけれど、今大好きなアンジェラ・アキのこの歌詞をみなさんに伝えて、僕のスピーチを終わります。
 「負けないで 泣かないで 消えてしまいそうな時は 自分の声を信じ歩けばいいの」

第2位

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「部活のメニューとご飯とパンツ」
Taylor Marston(Auckland University of Technology)

受賞コメント:
 以前の私は人前で話すのが得意ではなく、汗をかくほど緊張していましたが、この2年半の間に一生懸命日本語の勉強をし、自信を持つようになりました。このコンテストでトップスリーに入ったのは、私が成長できたことの証明です。本当に嬉しく思います。

 「ああ面倒、今日の部活のメニューはめちゃ大変そう」「えええ、マジかよ、もう帰りてえ」。部室のソファーでこの友達の話を無表情に聴きながら、考えました。「部活のメニューってどういう意味?」
「もしかして今日は誰かさんの誕生日で食べ放題にいくの?」「でも部長が選んだメニューは辛い食べ物ばかりで、辛い物が苦手である二人に対しては大変ということなのかな?多分そうだね」。私は数学の複雑な演算を解くことができたように笑顔になって、部室から出ました。
 私は日本語という海におぼれ込んでいる大学生である。部活でのメニューはレストランのメニューみたいなものではなく、トレーニングスケジュールみたいな意味として使用されていることが分からなかった私はいつも日本語と戦っています。このスピーチでは日本語の言葉や表現の意味が分からなくても、早合点しないでちゃんと意味を確認するのが何よりも大事といことを表したいと思います 。
 去年私は一年間交換留学生として、札幌大学で勉強することになりました。その間にはたくさんの大戦(たいせん)が行われたのです。一番最初に現れた相手はごはんでした。皆さんはご存知と思うのですが、ご飯という言葉は意味が二つあります。白いお米と食事です。日本人の友達によく「ご飯を食べよう」と言われましたが、本当にお米のごはんを食べるのか、普通に食事するのか、それともお米のごはんのトッピングがのっている新たなピザを食べるつもりか、全く見分けることが出来ませんでした。
 特に誤解するところはカタカナです。なぜかというと、カタカナはほとんど英語に由来する言葉ですが、その言葉の元々の英語の意味からは別な意味として使用されていることが時々あるからです。基本的にカタカナの使い方に対して、英語の言葉の意味と違う可能性を考慮しないといけないのです。
 札幌の寒中雪で覆われた道をミニスカートを履いている女子の友達と一緒に歩いていたら、友達が「マジで寒いいい、死にそう」といいました。友達の姿を見たら、ミニスカートしか履いていなくて、ぶるぶるしていることに気づきました。「そんなに寒いなら、なんでパンツとか履かないの」「何言っているの、当たり前にパンツはちゃんと履いているよ!」この子には今年のクリスマスプレゼントには、メガネをあげようと考えながら「ええ、完全にミニスカート履いてるけど」「でもスカートのしたにはもちろんパンツを履いてるよ」
 「あああ、日本語でパンツって下着の意味なのかい」。。。
 日本語2点、私は零点
 確かに日本語を勉強する時は誤解が多いですけど、成長するために誤解するのは不可 欠に違いないです。誤解することは学ぶことと言えるほどこの二つは同じものです。なので、誤解する場面などに怖がらずに飛び込んでみてください。その誤解から自分の日本語能力は2倍以上に上達するからです。
 ご静聴いただき、ありがとうございました。

第3位

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「私の両親の移民生活 」
Anna Gan(University of Victoria)

受賞コメント:
 驚くと同時に、喜びが溢れて止まりません。私の日本語の勉強に対する努力を肯定してくださり、これほどの名誉をいただくことに心から感謝しています。さらなる成長のための努力への最大の励みです。私はこれからも日本語の勉強を全力で頑張りたいと思います。

 私は見た目がニュージーランド人に見えないので、よく"どこから来ましたか?"と聞かれます。普段、私は、「ニュージーランドから来ましたが、両親は中国人です。」と答えます。
 そうです。私の両親は中国人です。私の家族がニュージーランドに来る前、母は高校で校長先生を務めて、父は修士課程の学生であり助教授でした。その後、父の後任でメンターになった教師が中国に訪問した際に、父を、ニュージーランドでの博士課程の進学に誘いました。この留学が、両親がニュージーランドに引っ越すきっかけになりました。
 二人は、たった三歳だった私の兄を連れて、1986年にクライストチャーチへ留学、移住しました。今年でちょうど30年前ですよね。
 ニュージーランドに来た後しばらく、両親には収入がありませんでした。二人の貯金が、家賃や幼児だった兄の育児用品や、ほかの生活費に費やされ、ほとんどなくなり、父も研究に忙しく働けませんでした。家族の収入が母一人に託されましたが、会社の多くはアジア人を雇用しないため、母は為す術もなく、いろいろな最低賃金のアルバイトを全力で掛け持ちました。私が母のお腹にいた頃、母は農場で葱を植えるアルバイトをしていました。その時の母は妊娠七か月ぐらいで、お腹がすごく膨らんでいるせいで腰が曲げられなかったため、四つん這いになって、手と足を農場の泥で汚して、葱を植えていました。このことは、未だに、よく兄が酔っ払いになったときに話してくれます。
 経済的な窮乏以外に、私の両親は言葉の壁も乗り越えられませんでした。私の父はいつも大学にいるため、英語の勉強がまだできましたが、私の母はずっと一所懸命働いていたので、英語を勉強する時間とお金がありませんでした。私はニュージーランドで外国人が英語をうまく話せないせいで、いじめられたりバカにされたりしているのを見ると胸が苦しくなります。きっとその外国人も私の母の様に故郷を離れ、馴染みのない環境に引っ越して、誰かのために頑張っているのでしょう。
 移民生活の辛さが色々あっても、両親は決して諦めませんでした。永住権と父の博士号を取った後には、小さいながら、化学に関するビジネスを始めました。そのビジネスを少しづつ拡張して、商業機会が増えてきて、徐々に国際的なビジネスになりました。そしてその頃、私が生まれたのです。
 両親はそのビジネスでよく国内外に出張するので、子供の頃の私はよく寂しがって、両親に文句がたくさんありました。しかし、大人になると、こんなにいい環境に育てられた私は幸せだったのだとわかりました。私が今いるのは、すべて両親の長年の努力の結晶だと深く理解できました。
 だから私は敢えて中国語を話し続けることによって、両親が教えてくれた中国の文化を受け継ぎます。両親はこの西洋社会に適応するために母国の文化や伝統を捨てましたが、私がそれを受け継いでいるのは、二人への恩返しをしているためです。二人が手放した文化は、ニュージーランドで消えたりはしません。私の中に生き続きます、と両親に伝えたいです。異文化同化ということは、一方的に文化に入り込んで終わるわけではありません。互いが互いの文化と通じ合う必要があります。そのために留学や文化交流プログラムがあります。だから私はここにこのスピーチをしています。私は、両親のために、この交流の機会を守りたいです。家族を異国に埋もれさせたくない父のためにも、ふつうの英語力で、最大限の力を家族の生活のために費やし、英語の勉強を諦めた母のためにも。
 最後の一言です。私がクライストチャーチからウェリントンに来る前に、母が私を抱きしめて、涙目でこう言いました。"あなたとそんなに多くの時間を過ごせなくてごめんなさい。我爱你!もう近くであなたを守れない、だから自分自身を大事にしてください、ウェリントンでも。"

カテゴリ:特集
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