Vol.43 時代を飾るキウイ ニュージーランドのスポーツアドバイザー


先月、日本人に全く馴染みのないスポーツ「ネットボール」の地区対抗戦「National Bank Cup Series」が終わった。ネットボールは、イギリスで生まれた女性のボールスポーツだ。英国連邦の国々で広く女性の間で楽しまれており、国を代表するチーム同士で争われるテストマッチもある。テレビ中継もあり、男性のラグビーに相当する、女性の間で最もポピュラーなスポーツという位置づけにあると言っていいだろう。
我々日本人にとっては小学校の頃、体育の授業で体験した「ポートボール」を連想させる。が、ドリブルは出来ない、ゴールはネットを付けたリングだがバスケットボールのようにボードはない、ポジションが決まっていて動ける範囲が限られている、ボールを争って体当たりもあるなど、ポートボールとは比べ物にならないくらい激しく、厳しいスポーツなのである。
ニュージーランドの代表チームは「シルバーファーンズ」と呼ばれる。ラグビーのオールブラックスのように愛称があるのだ。そのシルバーファーンズで活躍し、引退後にテレビや雑誌、新聞などで活動しているバーニス・メネだが、単なるタレントならず、3か国語をあやつる語学の先生であり、ジャーナリスト、トップレベルのスポーツ選手が抱える様々な悩みや問題を解決するスポーツアドバイザーとしての顔も持つ、文武両道を行く頼もしいキウイガールだ。

サンプルイメージ

Bernice Mene

バーニス・メネ

スポーツアドバイザー / Sports Advisor

西サモアの両親の元にクライストチャーチで生まれる。史上最年少でシルバーファーンズに選ばれ、2002年の引退までに3シーズンでキャプテンを務める。2003年に結婚した元ブラックキャップス(ニュージーランドクリケット代表)のディオン・ナッシュとのおしどり夫婦で有名。ちなみに身長は189センチ。

西サモアのスポーツファミリー
自分のスポーツの才能は家族から受け継いだもの

両親は西サモア出身で、私は18歳まで、生まれた場所、クライストチャーチに住んでいました。父は10種競技、母は5種競技でそれぞれ西サモア代表でした。2人の弟もそれぞれラグビーと、バスケットの西サモア代表に選ばれました。おばさんもニュージーランドのネットボール代表という、一族が皆国際レベルのスポーツの代表になっていました。小さい頃は両親と外に出かけるたびに陸上トラックに連れて行かれた記憶があります。私も5歳から両親の影響で陸上競技を始め、10歳からネットボールに関わりました。陸上も楽しかったのですが、次第に興味がネットボールに移って行きました。覚えているのは、同年代の友達とクライストチャーチの寒い朝に一緒にネットボールをして楽しんだ事でした。当時は本当に楽しくてたまりませんでした。楽しさの反面、もっとうまくなりたい、もっと真剣にプレーしたいという気持ちが強くなりました。12歳ですでに身長が180センチありました。ですので、年上の人たちに誘われ、上のレベルでプレーするようになっていました。
17歳の時ニュージーランド代表チーム「シルバーファーンズ」に史上最年少で選ばれました。10年間シルバーファーンズに選ばれ続け、2002年の引退までにたぶん83試合は出ていたのではないかと思います。あとは良く覚えていません。1997、2000、2001年の3シーズンにはキャプテンも務めました。ネットボール人生のハイライトは初めてテストマッチに出た時、2000年に長い間世界チャンピオンだったオーストラリアを破った時、そして、1998年の英国連邦のオリンピックである、コモンウェルス・ゲームがマレーシアのクアラルンプールで行われた時にニュージーランド代表として出場した事です。もともとネットボールは英国連邦のスポーツですので、オリンピックの種目になっていません。したがって、コモンウェルス・ゲームで優勝する事は世界チャンピオンになる事なのです。この大会の時には弟も7人制のラグビーで西サモア代表として出場していましたので、家族で盛り上がりました。
現在ニュージーランドのネットボールはラグビーの地区代表選手権であるNPCと同じようにニュージーランドを8つに分けた地区代表チームが優勝を競い合うナショナルバンク・カップが毎年4月から6月まで行われています。この大会の後に選ばれた代表チームがシルバーファーンズです。ナショナルバンク・カップに出場する選手やシルバーファーンズに選ばれた選手には報酬が支払われます。しかし、それだけでは十分ではありません。ニュージーランドのネットボール選手は皆、仕事や学業と両立させているセミプロなのです。

学業とスポーツ
仕事とネットボールを両立させる

ネットボールを続けながら、勉強もしました。ダニーデン教育大学で教育学位を取ったあと、カンタベリー大学でジャーナリズム、ヴィクトリア大学で文学を専攻しました。同時に、ニュージーランドのスポーツ財団であるヒラリーコミッションのスポーツ大使、インバーカーギルにあるサウスランド・ネットボール協会の強化委員も務めました。大学を終えると、インバーカーギルを中心とするサウスランドのナショナルバンク・カップの地域代表チーム、サザン・スティングに所属し、選手兼コーチとなりました。仕事もしなければなりませんでしたので、オタゴ・ガールズ・ハイスクールでフランス語、ドイツ語を教えました。その後、オークランドに来て、マウント・アルバート・グラマースクールで英語、フランス語、ドイツ語を教えました。私は昔から語学の文法を学ぶのが大好きでした。言葉はコミュニケーションを開く手段です。その語学を教える事は毎日の生活の可能性を開くために使う言葉を与える事です。私は教職とは個人の個性を尊重しながら、多くの学生が学ぶ楽しさや、目標達成したりする気持ちを育ててあげる手助けをする事だと思っているので大好きな仕事なのです。
その後は、教壇を離れたものの、教職の延長線上にいました。ウェリントンのイースト・ガールズ・スクールの陸上コーチやスポーツ・オークランドのコーチングマネージャーになりました。現在はニュージーランド・アカデミー・オブ・スポーツのアドバイザーとして週に一日だけAUT(オークランド工科大学)でキャリア・カウンセリングを行っています。主にスポーツ奨学生に対してスポーツと学業、仕事、家族などとの時間の割き方やエネルギーの注ぎ方、お金の使い方ヘのアドバイスを行っています。トップレベルのスポーツに関わる若い人たちが悩みがちな周囲の期待ヘのプレッシャー、スポーツの取り組み方への不安などを払拭するための理解力と判断力を養うのに、私の過去のスポーツと教育現場で得た経験が役立つと思っています。

様々な職歴と肩書き
テレビのダンスショウは仕事のほんの一部

AUTでの仕事は週一回ですが、このところの仕事はテレビコマーシャルヘの出演や講演会でのスピーチなどを行うプロモーション業が忙しくなり、ウェリントンに個人マネージャーを雇うようになりました。また、新聞でネットボールに関するコラムを執筆もしています。特に最近ではTV ONEで日曜の夜に放送された「Dancing with the Stars」に出演し、高校のパーティーと結婚式以来のダンスを披露しました。これは私を含めた8人のダンス素人のパーソナリティーがプロのパートナーと組んでどこまでマスター出来るかと言う趣旨の番組です。
最初に出演の依頼が来た時にはとても難しそうだったので断りました。その後、何度も出演の依頼が来たのですが、断り続けました。主人に聞いてみたところ「やってみたら?」と言うので、出演を承諾しました。しかし、やはり大変だったのです。8組のカップルはみな同じ、本番の6週間前から練習を始めました。最初の一週間は毎日10時間のレッスン。第二週から本番直前までは週5日間で、一日8時間のレッスンでした。ネットボールをやっていた時とは違う金肉を使うのでしょう、背中がものすごく痛くなりました。
番組は8組が審判の前でダンスを競い合い、最後まで勝ち残ったカップルがチャンピオンになります。点数の一番低いカップルが毎週消えて行きます。私は幸運にも最後の4カップルにまで残れました。単に審判の点数の善し悪しだけで勝敗が決まるのではなく、視聴者の電話による投票も勝敗に大きく影響を与えます。この投票は通話料金の一部がチャリティーに寄付される事もあり、私が出演する事でお手伝い出来るならという気持ちも最終的な出演の決断材料になりました。最後は元ラグビー選手と男優の二組が残りました。共に素晴らしいダンスを披露し続けて最後まで残りました。全国的に新聞でも取り上げられ、ラジオでは首相までがどちらが勝ち残るかヘコメントをし、高い関心を示したほどでした。結局、元ラグビー選手のカップルが優勝しました。全国的にダンスヘの興味を喚起し、ダンスを習いたいと言う人を発掘した、ニュージーランドのダンスブームに火をつけた番組でした。
今後はこの経験を活かして、もっと肩の凝らない、楽しめるダンスをしてみたいと思っています。この番組に出演出来た事を大変誇りに思っています。

カテゴリ:他スポーツ
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