E-CUBE 2004年05月

VOL.28 5月号


NZで活躍する日本人

時代を飾るキウィ




Career up in NZ : 専門職に就いてキャリアアップ中

<セラピューティックマッサージと医療通訳:佐藤 裕美 さん | メイン | 精神神経免疫学研究生:玉川 りえ さん>

映画制作会社アシスタント:未紀 ジェイムズ さん

未紀 ジェイムズ さん未経験の映画業界への進出も可能な国、ニュージーランド

映画の制作会社でアシスタントを務めていた未紀さんのNZへ来た動機は夫についてきたと、極めて簡単であった。しかしそのおかげで映画という新しい世界に飛び込むことができたと言う。NZに転がるチャンスは年齢や性別に関係なく、あらゆる方面に広がっている。

未紀ジェイムズさん
Minori James
I.M.F.D Limited
Production Assistant
1974年生まれ。香川県出身。高校卒業後、カナダへ留学、語学学校を経て大学の言語学科に進む。卒業後はバンクーバーの運輸会社に勤務。その後、日本、フランス、オーストラリアなどを渡り歩く。オーストラリア人スキッパーの夫の仕事探しのためにニュージーランドには02年にワーキングホリデービザで来る。その後、『ラスト・サムライ』のプロダクションアシスタントの職を得る。

英語とのかかわり

 ニュージーランドで撮影されたハリウッド映画『ラスト・サムライ』のプロダクションアシスタントの仕事をしていて、最も嬉しかったことのひとつは渡辺謙さんや真田広之さんと一緒に写真を撮れたことです。自分が今までテレビで見ていた人を目の前にできる映画の仕事に関われたのは私がニュージーランドにいたからだと思います。もちろん、写真はそのプラスアルファですが、実はそれが一番嬉しかったりするのです。英語が好きで海外に出ようと思っていた頃からは想像もつかない自分の姿でした。
 中学生のときから英語は好きでしたし、学校の勉強もちゃんと取り組んでいました。高校に入ってからは覚えなくてはならないことが一気に増えたので、だんだんサボるようになっていたのですが、海外の友達と文通をしていたので、そこで英語に触れることは続けていました。
 実家がのどかな田舎でしたので、小さい頃から外に出たいという気持ちがありました。そして英語が好きだったため、大学生になったら、留学することを考えていました。しかし、日本で大学に進学、その後に海外留学という道のりでは時間がかかると思い、高校を卒業してすぐにカナダに留学することにしました。
カナダには卒業した年の5月には着いていました。しかし、すぐには大学に入学することはできません。まず最初に英語を学ぶ必要がありました。渡航してすぐにカナダの大学に行くために、付属の英語学校に通い始めました。
 英語のレベルはある程度の予想はしていたのですが、案の定、ほとんどできませんでした。特にヒアリングが難しく、相手の言っていることが理解できず、会話をするたびに心臓が大きな音を立てていました。
 この最初の壁を乗り越えることができたのはホームスティ先にいた4歳の子どものおかげでした。家で彼と遊んでいるうちに、英語そのものに慣れたのです。なにしろ相手は子どもですから決して難しいことは言わないという安心感があります。それに遊んでいるときですから、私自身も肩肘張らずに接していたのが良かったのだと思います。 学校から帰って、毎日子どもと遊んでいるうちに英語が耳に慣れてきました。それと同時に英語に対する恐怖心は消えていました。

深夜までの勉強

 学校にはもちろん私と同じ日本人の生徒もいました。みんな同じように大学に通うという目標を持っていましたので、お互いに日本語ではなく英語で話すようにしていました。特別にルールを決めたわけではありませんし、日本語は絶対にダメというわけでもありません。なんとなく英語で喋ろうという雰囲気でした。このなんとなくという雰囲気が私には良かったのでしょう、強制されていたら恐くて縮んでいたかもしれません。
 授業中は先生の話を熱心に聞いていました。あれだけ熱心に聞いていたわりには、内容はほとんど記憶にありません。ただ1つだけはっきりと覚えていることがあります。ある先生が最初の授業で、辞書について話をしました。そこで自分の母国語の辞書は使わないようにと言って、英英辞典を使うよう指導されました。それ以来私は英英辞典を使って意味を調べるようにしました。同じ意味の言葉のバリエーションが増えることや、英文を読むことに慣れることなど、勉強する初期の段階で英英辞典を使い始めることは有意義なことでした。
 大学に入るための英語コースにはホリデーの期間も入れて約1年半通いました。その途中、なかなか自分のクラスのレベルが上がらないときもありました。一番ネックになっていたのは英作文のクラスでした。何を書いても、どんな書き方をしてもいい評価を与えてくれない厳しい先生が担当で、英語の表現や起承転結をつける文章の構成など、テクニックを中心に授業が行われていました。授業以外の課題も多く、毎晩、出される宿題をこなすのに夜中までかかっていました。自分ではそれが普通だと感じるようになっていたのですが、家族が遊びに来て私が机に向っている姿を見て「どうしてこんなに遅くまでやってるの?」と驚かれたとき、日本にいた頃の自分とは大きく変わっていることに改めて気づきました。こうして英語コースを卒業してそのまま大学に入学しました。この頃には文章を読むときにほとんど辞書を引かなくてもよいような状態になっていました。

NZとの出会い

 大学では文学部の言語学科に入り、ここでもやはり毎晩夜中まで課題をこなしていました。何より教科書を繰り返し読んでいました。丸暗記とまではいきませんが学校で使っているテキストや資料を片っぱしから読んでいきました。日本で学校に通っていたときは授業でやったところだけしか読んでいない、特に資料などは開いたことがないページがあったりもしましたが、ここでは1ページたりとも、1文字たりとも逃しはしませんでした。これが意外とボキャブラリーを増やすのに役に立っていたのだと思います。
 卒業後はカナダで就職をしました。その後、日本に戻ったり、フランスへ行ったり、再びカナダに行ったりして02年にオーストラリアに行き、そこでヨットのスキッパーをしていた夫と出会い、結婚ということになったのです。ニュージーランドに来たのはその直後のことでした。
 ちょうどその頃ニュージーランドではアメリカズカップが盛り上がっているときで、夫はスキッパーという職業だったためこの国で仕事をしようとしており、私はそれについてくるという形になりました。
 ニュージーランドに来てすぐに夫と私は仕事を探し始め、2人でヘラルド新聞の求人欄をチェックするのが日課でした。その中でいくつかの面接を受け、人材派遣会社にも数社登録しましたが、なかなか職が決まりませんでした。
 ちょうどその頃、『ラスト・サムライ』のプロダクションアシスタントの募集を見つけ応募したところ採用が決まり、2002年の11月からオークランドの事務所での勤務が始まりました。
 私のポジションはアシスタントですのでメインのスタッフの仕事が円滑に進むようにするのが主で、簡単に言ってしまえば雑用係りみたいなものでした。特に日本人エキストラで募集してきた人の書類の整理や連絡が業務の大半を占めていました。

映画の裏方

 翌年の1月からはニュープリマスの映画のロケ地での仕事がスタートしました。 最初の頃は電話での対応に苦労しました。実際にキャスティングをするのはアメリカから来たスタッフですが、その連絡をするのは私です。採用された人とはスケジュールを電話で確認します。反対に採用されなかった人からの問い合わせもありました。特に不採用だった人からの怒りの矛先は電話を実際にかけている私のところにきたので、その対応には気をつかいました。中には不採用であった理由を問い詰められることや、採用してくれるように懇願されることもありましたが、私には採用、不採用の決定権はありませんし、それに関わる理由も聞かされていませんので、ただその旨を伝えるしかありませんでした。
 そして出演するエキストラが決まってくると今度はその人たちのスケジュール調整に時間を取られるようになりました。エキストラの人には衣装合わせのために一度、ニュープリマスの現場に来てもらいその後、日数をおいてから撮影のために再び来てもらうということもあります。ただし1人や2人のことではありませんので、一度に何十人もの調整をしなければなりません。私はその人たち全てに連絡を入れ、スケジュールの都合をつけていました。そのため、1日中電話をかけて、スケジュールのことについてテープレコーダーのように繰り返して言っていました。 このときばかりは体力的に非常に苦しかったことを覚えています。また実際にエキストラの人が現地へ来たときにはホテルのチェックインにも同行しました。
 ただ、津波のように一気に大勢で来たエキストラの人が衣装合わせを終えてバスに乗り込み、それに手を振って見送ると「あーひと仕事終わった」という充実感に浸れていました。もちろん、その時点ではまだまだ私の仕事は先が見えた状況ではないのですが、そうやって自分で区切りをつけることで、長丁場の仕事を続けていくための気持ちのバランスを取っていたのかもしれません。

仕事の区切り

 全体を通して私の最も重要な仕事が撮影日の変更を伝えることでした。後半の3月4月には特にそれが多く、仕事の中で一番気をつかい、苦労したのがこの変更でした。撮影の状況は毎日のように変わっていきます。そのたびに、関わっているエキストラの人全員に変更の電話をかけなくてはなりませんでした。この変更というのが曲者で、それが1度くらいであれば、相手も理解してくれるのですが、何度も何度も、それこそ毎日のようにスケジュールが変わるのです。すると私も毎日のように同じ相手に「すみません、ロケ現場に来てもらう日が変わりました」と伝えなければなりませんでした。ある程度時間に融通が聞く人であればいいのですが、相手が子どもの場合は学校との兼合いもあって、調整するのは大変でした。
 こうやって、毎日のように電話をしていると、実際に会う前に相手の顔と名前を覚えてしまいます。今回は600人を越す日本人のエキストラが参加しています。私はそのうちNZ国内で応募して、そして採用された人に電話をして調整をしていましたので、その人たちはほぼ覚えています。電話をかける際の履歴書には写真もついていますから自然に顔も覚えてしまい、私にとってはニュープリマスで皆さんに会うときには旧知の仲のような感じがしてしまい、撮影のときにすれ違って「〜さん、こんにちは」と私が声をかけると「えっ、なんで私の名前を知ってるの」ということになることもしばしばありました。
 映画のプロダクション会社は通常、撮影のために設立され、撮影終了と共に閉められます。ですから私も撮影終了と共に再び職を探すことになりました。

新しい映画

 こうして5月には『ラスト・サムライ』が終わり、再び求職状態となってオークランドに戻って来たのですが、運のいいことに、『ラスト・サムライ』で一緒に仕事をしていた人が別の映画のプロダクションマネージャーをすることになり、アシスタントとして、私に声をかけてくれました。
 イギリスの小説が原作になった『In My Father's Den』という映画で、制作はニュージーランドとイギリスの合作、内容はシリアスな感じのファミリードラマです。2つの国の合作で、NZ撮影というのは、『ラスト・サムライ』以降、ニュージーランドが映画などの撮影誘致を推進している1つの影響なのかもしれません。公開は04年の9月以降の予定です。
 撮影は7月から10月に、主に南島とオークランド周辺で行われました。電話の受付や総勢70名ほどのクルーの住所リスト作成、文房具のオーダーなどここでもやはり雑用が、アシスタントの業務でした。
 そして、私の毎日の仕事のヤマ場でのキーワードもやはり「変更」でした。毎日撮影は決して予定通りに進みません。天候やスタッフの都合など、様々な理由で、毎日変わります。明日のスケジュールが決まるのは前日の夕方です。私たちオフィスサイドの仕事はその決定されたスケジュールの内容を現場のスタッフに伝えなければなりません。少なくとも明日の撮影の時間と場所は確実に伝えなくてはなりませでした。まず、スケジュールが決まった時点で、ボスが私に口頭で詳細を伝えてきます。それを聞きながらワープロで打ち込み、プリントアウトをしてコピー。ひとつひとつのヘッドに受け取る人の名前約50人分を書いて、配達の係りの人に渡します。そしてヘンダーソンにあるオフィスから、例えば学校のシーンを撮っているヘレンスビルの撮影現場まで配達係りが飛ばして持っていくという流れでした。
 私の作業時間は約10分。仕事の内容としては決して難しいわけではありませんが、わずか10分に集中することと、毎日、夕方になるとこの仕事があるため、私にとっては1日の締めくくりみたいな感じでした。
 毎日のスケジュール変更のほかに、シーンの追加やカットという変更もあります。これは急を要するものではなく映画の内容に関するものでした。それも同じようにプリントアウトそして、名前を書いて各スタッフの棚に入れておきました。こういった変更が多かったせいでしょうか、一番使われた文房具は蛍光ペンでした。たまたま私が蛍光ペンを多く使っていたのかも知れませんが、3日に1本の割合でなくなっていくほど、変更によってハイライトをつける書類が多くあったのです。

仕事での英語

 このプロダクションでは『ラスト・サムライ』とは違って、一切日本語が必要ありませんでした。日本人のスタッフは私だけでした。その中で英語に気をつかう部分もありました。相手の名前では必ずスペルをもらうようにしていました。南島のスタッフで非常に訛りが強い人がいてその時には、1回1回、受話器越しに「あなたが言った意味はこうなの?」と聞いていました。ニュージーランドへ来て間もない頃、ある人材派遣会社に登録するために電話をしたところ、相手の言っている英語の訛りが強くてほとんどわからなかった事があります。その際に「あなたはコミニケーションスキルがいまひとつね」と言われました。英語を勉強し始めてから10年以上も経ってそういわれたので、夫に代わって聞いたところ、かなり訛りの強い人なので、英語のネイティブでもわからない事があるよと言っていました。それ以来、訛りの強い人も多いといことを常に頭に入れて、電話では特にスペルや内容の再確認をしていきました。
 10月に撮影が終わると同時に再び私は失業となるはずでしたが、ありがたいことに、そのまま『In My Father's Den』の締めくくりの仕事にも続けて携わるようにボスから言われました。映画の最後に出てくるスタッフの名前を全て確認することが主な仕事でした。スタッフ全員、1人も漏らさずに載っているか、協力、協賛会社の名前は相手のリクエスト通りに載っているか、などの確認でした。確認自体は大したことないのですが、イギリスとのキャッチボールでしたので、意外と時間がかかりました。ただ、私は英語のネイティブではないので、名前の綴りなどはひとつひとつ慎重に確認していました。
 残務処理が終わり、この2月いっぱいで再び、私は失業状態になりました。

NZでのチャンス

 私はニュージーランドで初めて映画に関わる仕事をしました。そこでは1日の勤務は12時間とハードな面もありました。そのためスタッフのほとんどは独身で、ボーイフレンドやガールフレンドはいないという少し変わった集団に属していたような気もします。しかし、多くの人と1つの映画を作る楽しさを垣間見ることができたと思います。キウイにしても日本人にしても、その他の国の人たちにしても本当に多くの人と出会うことができました。私の場合は『ラスト・サムライ』のタイミングが良かったということもありますが、ニュージーランドはチャンスを掴みやすい国だと思います。私のように、この業界が未経験であったとしても一歩踏み込むことができ、さらにそこから次のステップに進むことも可能です。NZは『ラスト・サムライ』以降は撮影の誘致による経済効果に多くの人が目を向けているので、映画だけでなくテレビやスティールなどあらゆる撮影の機会が増えていると思います。それは同時に雇用の機会も増えていると思います。もちろん最初は私のように日本人であることを生かした方法が入りやすいとは思いますが、そこで次の仕事に続けることは十分に可能なのです。
 今後、再び映画の仕事に就けるかどうかは私にも予測はつきませんが、この経験を1つのステップにしていきたいと思います。

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