映画の制作会社でアシスタントを務めていた未紀さんのNZへ来た動機は夫についてきたと、極めて簡単であった。しかしそのおかげで映画という新しい世界に飛び込むことができたと言う。NZに転がるチャンスは年齢や性別に関係なく、あらゆる方面に広がっている。
英語とのかかわり ニュージーランドで撮影されたハリウッド映画『ラスト・サムライ』のプロダクションアシスタントの仕事をしていて、最も嬉しかったことのひとつは渡辺謙さんや真田広之さんと一緒に写真を撮れたことです。自分が今までテレビで見ていた人を目の前にできる映画の仕事に関われたのは私がニュージーランドにいたからだと思います。もちろん、写真はそのプラスアルファですが、実はそれが一番嬉しかったりするのです。英語が好きで海外に出ようと思っていた頃からは想像もつかない自分の姿でした。 中学生のときから英語は好きでしたし、学校の勉強もちゃんと取り組んでいました。高校に入ってからは覚えなくてはならないことが一気に増えたので、だんだんサボるようになっていたのですが、海外の友達と文通をしていたので、そこで英語に触れることは続けていました。 実家がのどかな田舎でしたので、小さい頃から外に出たいという気持ちがありました。そして英語が好きだったため、大学生になったら、留学することを考えていました。しかし、日本で大学に進学、その後に海外留学という道のりでは時間がかかると思い、高校を卒業してすぐにカナダに留学することにしました。 カナダには卒業した年の5月には着いていました。しかし、すぐには大学に入学することはできません。まず最初に英語を学ぶ必要がありました。渡航してすぐにカナダの大学に行くために、付属の英語学校に通い始めました。 英語のレベルはある程度の予想はしていたのですが、案の定、ほとんどできませんでした。特にヒアリングが難しく、相手の言っていることが理解できず、会話をするたびに心臓が大きな音を立てていました。 この最初の壁を乗り越えることができたのはホームスティ先にいた4歳の子どものおかげでした。家で彼と遊んでいるうちに、英語そのものに慣れたのです。なにしろ相手は子どもですから決して難しいことは言わないという安心感があります。それに遊んでいるときですから、私自身も肩肘張らずに接していたのが良かったのだと思います。 学校から帰って、毎日子どもと遊んでいるうちに英語が耳に慣れてきました。それと同時に英語に対する恐怖心は消えていました。 深夜までの勉強 学校にはもちろん私と同じ日本人の生徒もいました。みんな同じように大学に通うという目標を持っていましたので、お互いに日本語ではなく英語で話すようにしていました。特別にルールを決めたわけではありませんし、日本語は絶対にダメというわけでもありません。なんとなく英語で喋ろうという雰囲気でした。このなんとなくという雰囲気が私には良かったのでしょう、強制されていたら恐くて縮んでいたかもしれません。 授業中は先生の話を熱心に聞いていました。あれだけ熱心に聞いていたわりには、内容はほとんど記憶にありません。ただ1つだけはっきりと覚えていることがあります。ある先生が最初の授業で、辞書について話をしました。そこで自分の母国語の辞書は使わないようにと言って、英英辞典を使うよう指導されました。それ以来私は英英辞典を使って意味を調べるようにしました。同じ意味の言葉のバリエーションが増えることや、英文を読むことに慣れることなど、勉強する初期の段階で英英辞典を使い始めることは有意義なことでした。 大学に入るための英語コースにはホリデーの期間も入れて約1年半通いました。その途中、なかなか自分のクラスのレベルが上がらないときもありました。一番ネックになっていたのは英作文のクラスでした。何を書いても、どんな書き方をしてもいい評価を与えてくれない厳しい先生が担当で、英語の表現や起承転結をつける文章の構成など、テクニックを中心に授業が行われていました。授業以外の課題も多く、毎晩、出される宿題をこなすのに夜中までかかっていました。自分ではそれが普通だと感じるようになっていたのですが、家族が遊びに来て私が机に向っている姿を見て「どうしてこんなに遅くまでやってるの?」と驚かれたとき、日本にいた頃の自分とは大きく変わっていることに改めて気づきました。こうして英語コースを卒業してそのまま大学に入学しました。この頃には文章を読むときにほとんど辞書を引かなくてもよいような状態になっていました。 NZとの出会い 大学では文学部の言語学科に入り、ここでもやはり毎晩夜中まで課題をこなしていました。何より教科書を繰り返し読んでいました。丸暗記とまではいきませんが学校で使っているテキストや資料を片っぱしから読んでいきました。日本で学校に通っていたときは授業でやったところだけしか読んでいない、特に資料などは開いたことがないページがあったりもしましたが、ここでは1ページたりとも、1文字たりとも逃しはしませんでした。これが意外とボキャブラリーを増やすのに役に立っていたのだと思います。 卒業後はカナダで就職をしました。その後、日本に戻ったり、フランスへ行ったり、再びカナダに行ったりして02年にオーストラリアに行き、そこでヨットのスキッパーをしていた夫と出会い、結婚ということになったのです。ニュージーランドに来たのはその直後のことでした。 ちょうどその頃ニュージーランドではアメリカズカップが盛り上がっているときで、夫はスキッパーという職業だったためこの国で仕事をしようとしており、私はそれについてくるという形になりました。 ニュージーランドに来てすぐに夫と私は仕事を探し始め、2人でヘラルド新聞の求人欄をチェックするのが日課でした。その中でいくつかの面接を受け、人材派遣会社にも数社登録しましたが、なかなか職が決まりませんでした。 ちょうどその頃、『ラスト・サムライ』のプロダクションアシスタントの募集を見つけ応募したところ採用が決まり、2002年の11月からオークランドの事務所での勤務が始まりました。 私のポジションはアシスタントですのでメインのスタッフの仕事が円滑に進むようにするのが主で、簡単に言ってしまえば雑用係りみたいなものでした。特に日本人エキストラで募集してきた人の書類の整理や連絡が業務の大半を占めていました。 映画の裏方 翌年の1月からはニュープリマスの映画のロケ地での仕事がスタートしました。 最初の頃は電話での対応に苦労しました。実際にキャスティングをするのはアメリカから来たスタッフですが、その連絡をするのは私です。採用された人とはスケジュールを電話で確認します。反対に採用されなかった人からの問い合わせもありました。特に不採用だった人からの怒りの矛先は電話を実際にかけている私のところにきたので、その対応には気をつかいました。中には不採用であった理由を問い詰められることや、採用してくれるように懇願されることもありましたが、私には採用、不採用の決定権はありませんし、それに関わる理由も聞かされていませんので、ただその旨を伝えるしかありませんでした。 そして出演するエキストラが決まってくると今度はその人たちのスケジュール調整に時間を取られるようになりました。エキストラの人には衣装合わせのために一度、ニュープリマスの現場に来てもらいその後、日数をおいてから撮影のために再び来てもらうということもあります。ただし1人や2人のことではありませんので、一度に何十人もの調整をしなければなりません。私はその人たち全てに連絡を入れ、スケジュールの都合をつけていました。そのため、1日中電話をかけて、スケジュールのことについてテープレコーダーのように繰り返して言っていました。 このときばかりは体力的に非常に苦しかったことを覚えています。また実際にエキストラの人が現地へ来たときにはホテルのチェックインにも同行しました。 ただ、津波のように一気に大勢で来たエキストラの人が衣装合わせを終えてバスに乗り込み、それに手を振って見送ると「あーひと仕事終わった」という充実感に浸れていました。もちろん、その時点ではまだまだ私の仕事は先が見えた状況ではないのですが、そうやって自分で区切りをつけることで、長丁場の仕事を続けていくための気持ちのバランスを取っていたのかもしれません。 仕事の区切り 全体を通して私の最も重要な仕事が撮影日の変更を伝えることでした。後半の3月4月には特にそれが多く、仕事の中で一番気をつかい、苦労したのがこの変更でした。撮影の状況は毎日のように変わっていきます。そのたびに、関わっているエキストラの人全員に変更の電話をかけなくてはなりませんでした。この変更というのが曲者で、それが1度くらいであれば、相手も理解してくれるのですが、何度も何度も、それこそ毎日のようにスケジュールが変わるのです。すると私も毎日のように同じ相手に「すみません、ロケ現場に来てもらう日が変わりました」と伝えなければなりませんでした。ある程度時間に融通が聞く人であればいいのですが、相手が子どもの場合は学校との兼合いもあって、調整するのは大変でした。 こうやって、毎日のように電話をしていると、実際に会う前に相手の顔と名前を覚えてしまいます。今回は600人を越す日本人のエキストラが参加しています。私はそのうちNZ国内で応募して、そして採用された人に電話をして調整をしていましたので、その人たちはほぼ覚えています。電話をかける際の履歴書には写真もついていますから自然に顔も覚えてしまい、私にとってはニュープリマスで皆さんに会うときには旧知の仲のような感じがしてしまい、撮影のときにすれ違って「?さん、こんにちは」と私が声をかけると「えっ、なんで私の名前を知ってるの」ということになることもしばしばありました。 映画のプロダクション会社は通常、撮影のために設立され、撮影終了と共に閉められます。ですから私も撮影終了と共に再び職を探すことになりました。 新しい映画 1.ホームスティ先の子どもとの会話で英語に慣れる |
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