Vol.71 時代を飾るキウイ 総集編1 |
E Cube は2002年1月に創刊され、今までに68人も のニュージーランドの著名人、キーパーソン、オピニオン リーダーなど、日本人以外でニュージーランドで活躍され ている方々にご登場いただきました。 2003年年末には創刊号から登場したいただいた22人 の方々を総集編として紹介いたしました。 そして、2007年の今月号と来月号は2004年から先 月までにご登場いただいた方46人を総集編として、2回 に分けてご紹介いたします。メディア、スポーツ、料理、 ビジネス、音楽、芸術、教育、映画、ファッションなど様々なジャンルからご登場下さった方々は、中には職種が変 わったり、ニュージーランドを離れてしまったり、休養を 取っていたりする人もいますが、今でも輝いている人達ば かりです。 この総集編はインタビューに登場して下さった方々のイン タビューの中からキーワードを選び出しています。それは 読者のみなさんに「あんなキウイがいたなと」記憶に留め ていただきたいと思っているからです。 今後も「時代を飾るキウイ」にご期待下さい。 (肩書きなどはインタビュー時のものです。)
ウエリントン生まれ、育ち。ジャーナリズムを専攻し、ラジオ番組のアナウンサーとして仕事を始めるが、そのかたわらクライストチャーチのリンカーン大学で園芸学の学位を取得。一時は造園業を営んだが、テレビの世界でニュース、時事番組を担当し、1991年より「マギーズ・ガーデン・ショー」の放映を開始。 2003年11月 28日で放送を終了。12年間の放送でニュージーランドのガーデニングの地位を内外に確立した。現在ウエリントン在住。一児の母。 今はニュージーランド・ガーデンとは何かという定義を確立中だと思います。インドアライフ、アウトドアライフを庭に持ってくる考え方あたりから、ニュージーランド・ガーデンのアイデンティティが生まれてくるのではないかと思っています。ニュージーランドは過去に自分達のアイデンティティを探す時に海外を参考にして来ました。しかし、もうその必要はないと思います。アート、ファッション、デザイン、音楽などニュージーランドがこのところ手掛けて来たものはニュージーランド人の愛国心やプライドで溢れています。ガーデニングについても同じです。ですから、ニュージーランド・ガーデンの定義は「まだ、ない」と言っておきます。
1955年イングランド生まれ。4歳の時ニュージーランドに移住。オークランドのノースショアで育ち、ロスミニカレッジを経て、オークランド大学医学部卒業。
ドイツに祖先を持つオーストラリア人の父と南島ウエストコースト生まれのマオリの母の間にオークランドで生まれる。大学在学中に専攻したのはイギリス文学とインドネシア語。ラジオ局、新聞社で時事問題を担当し、テレビジョン・ニュージーランドで時事番組のディレクターとプレゼンターを経てTV3へ。今年で「3ニュース」のプレゼンターは8年目を迎えた。9歳の息子と、3歳の娘の母。
オークランド生まれ、育ち。オークランドのセントマリーズ・カレッジを卒業。看護婦、カウンセラーを経て、カナダ、イギリス、フランスでなど海外で16年間過ごし、1990年にニュージーランドに帰国。1996年からチャンネルワンで「Taste New Zealand」の放送が始まり、今年で9年目。最新の著作「Noodle Pillow」を出版し、ベトナム料理、旅行記を紹介している ニュージーランド料理の一例は、オークランドで言えば、近海で獲れた鯛をグリルし、マッシュポテトをその下に敷き、グリーンサラダを添えて、醤油ベースのソースで食べる環太平洋料理を指します。また、南島クライストチャーチでは、また違ったものを指します。ラムをローストし(中はピンク色で)、湯がいた青梗菜と焼いたトマトを添え、東南アジアの甘辛ソースで食べる昔のニュージーランド料理に各国のエッセンスを加えた料理を指します。このニュージーランド料理は海外で成功している例も多いのです。ロンドンではキウイ・フュージョン料理と呼ばれ、私はロンドンの友達に「ニュージーランドではこんなおいしい料理を食べているのよ」と言うと、みんなが驚きます。
1971 年10月ウェリントン生まれ。オタゴ大学卒業。専攻はマーケティング。21歳の時オールブラックスに選ばれ、キャップ(代表試合出場数)は8。95年のラグビーワールドカップでは対日本戦で6トライを記録。それは現在も世界記録。その後、ラグビーリーグに移籍し、キウイズでのキャップは5。96年からテレビ番組「Sports Cafe」、97年から「Game of Two Halves」を始め、98年にCharlies Trading Company Ltdを設立し、ラグビーとタレントとビジネスを併行させていたが、2000年にラグビー界から引退。現在はタレントとビジネスで活躍中。
英国の工業地帯の街ウォルバーハンプトン出身。1991年、商品の実演販売の仕事でオーストラリアに出張の傍らニュージーランドに立ち寄り、定住を決意。ニュージーランドでも一貫して物販にこだわる。テレビでの通販コマーシャルを駆使して、マッサージ枕や化粧品「Natural Glow」などで大ヒットを飛ばし、90年代のサクセスストーリーとうたわれる。会社を売却後、新事業「Rawaka Maori Village」を起し、観光業にチャレンジを始めた。
1999年ロドニーとマレーのフィッシャー兄弟とアートスクールで出会ったガレス・トーマス、マイク・ビーレの4人がオークランドで結成。2001年のデビューアルバム「Good」は7ヶ月もの間トップ40チャートにランクインし、プラチナアルバムに輝く。シングル「sophie」は8週連続No.1を獲得し、NZ MUSIC AWARDS 2003のシングルオブザイヤー、ベストソングライティング、ベストPVを受賞。2004年2月にリリースされたセカンドアルバム「Fiji Baby」がある。「Good」は今年4月、日本でTRIDENTSTYLE(トライデントスタイル)から発売され、5月に初来日し、日本デビューを果たす。
1959 年オークランド南部のワイウク生まれ。両親はスイスからの移民。ガスパイプラインなどを敷設するエンジニアとして25年のキャリアを持つ。エンジニアの職業と並行して北島中央部にあるワイトモ鍾乳洞のアドベンチャー・ビジネスにも進出し、エンジニアの経験を生かして、アドベンチャーマシンを開発。スカイ・ジャンプで使用しているマシンもワイトモ鍾乳洞をケーブルで降りて行く「ロスト・ワールド」の試作機を改良したもの。「スカイ・ジャンプ」は195ドル、学生割引だと145ドルになる。
北島ホークスベイ生まれ。ワイカト大学でマオリ学を専攻。卒業後、オークランドでラジオ・ニュージーランド、テレビジョン・ニュージーランドなどでマオリ語番組のディレクター、プロデューサーとして活躍。1999年に世界に初めて紹介されたマオリ音楽のアルバムとして「オセアニア」をリリース。2004年3月にオープンしたラウカタウリ・ミュージック・セラピーセンターの設立に大きく関わる。オークランド、シビック・シアターで8月21日を初日とする舞台「Whale Rider on Stage」では、自作の曲が多く使われ、自らもステージで唄う。
1967 年オークランド生まれ。AIT(現AUT=Auckland University of Technology)を卒業後、シェフの道へ。21歳でシェフ・オブ・ザ・イヤーに選ばれる。フランス、イタリア、スペイン、ロンドンなどヨーロッパで修行後、帰国。いくつかの高級ホテルのレストランでヘッドシェフを経験し、34歳でヒルトンホテルの「ホワイト」のヘッドシェフに就任。TVNZの朝の番組「Good Morning」で誰でも簡単に出来る料理コーナーを担当して2年。オークランド・シンフォニー・オーケストラでトランペットも担当する。9月に第一子の父親になったばかり。
西サモアとラロトンガの両親のもと、1950年オークランド生まれる。19歳でオールブラックスに選ばれ、38キャップ(代表試合出場数)を持つ。現在でも歴代の偉大なプレーヤーとして常に名を連ねる。ポンソンビークラブ、オークランドB代表、A代表、西サモア、ハリケーンズなどのコーチ、監督を歴任。ラグビーへの貢献が認められ、1983年にエリザベス女王からMBE(Member of the British Empire)が贈られる。職業は弁護士。二人の息子長男ゲビン、次男ポールともにラグビー選手。
スウェーデンのゴーセンブルグ出身。もともとは布地のデザインをするテキスタイル・デザイナー。夫のガラス職人、オラ・ホグランドと二人三脚でアートガラス器を作り続けるうえに、総勢30人のスタッフを統括する、マーケティングの総責任者。現在ギャラリーはニュージーランド国内にはオークランド、ネルソン、ウェリントンに、オーストラリアではシドニー、メルボルンに、その他デュバイとシンガポールに計7軒オープンしている。
1944年ウエリントン生まれ。15歳で学校をドロップアウトし、様々な職に従事したあと、オークランドで肉屋を開業。以来、マッドブッチャーチェーンとしてニュージーランドに29軒のフランチャイズショップがある。ラグビーリーグのボーダフォン・ウォリアーズの熱狂的サポーターである事はあまりにも有名。サインを求められると「Best of Luck, Your Mate, The Mad Butcher」を付け加える事を忘れない。妻ジャニスとの間に二人の娘がいる。三人の孫のおじいちゃんでもある。
1961年ニュージーランド人の両親のもと、インドに生まれる。オークランド大学でスポーツ法を学ぶ。オークランドのサバーブス・クリケット・クラブ勤務の傍ら、コーチも兼任。その後、ICC(インターナショナル・クリケット・カウンシル)で東南アジア・太平洋地域、全世界の普及・強化委員を経て、2003年に現職に就任。スポーツ法を学んでも、いま注目を浴びる職業、スポーツエージェントにはなるつもりは無い。
オークランド生まれ。マウント・イーデンにある教育大学卒業。インターミディエイト・スクールの教員を経て、料理の世界へ。1990年『Cuisine』のレストラン批評から始め、現在では最も影響力のある編集者兼食評論家に。最も好きなレストランはオークランドの「フレンチ・カフェ」。家でディナーを作る主婦、母親の役割も毎日こなす。食べる事が仕事のため、週2~3回はトレーナーを付けてジムで汗を流す。
1969年クライストチャーチ生まれ。リンカーン大学商学部でマーケティングを専攻。自らのラグビーは大学クラブで活躍し、セミプロとしてスペインのクラブで一年間プレーした事もある。クライアントにはクリケットや陸上の選手もほんの少しいるが、ほとんどがラグビー選手。大きな契約を決めるスポーツエージェントにしては世界的に見ても若すぎる事が目下の悩み。
1947年オークランド、パクランガ生まれ。オークランド大学でジャーナリズムを専攻。今までに経験した新聞記者、ガイド、旅行会社経営、テレビ・ビデオ制作会社経営などの職業はすべてがフィッシングがテーマ。現在はインターネットも含む全メディアでフィッシング・スペシャリストとして活躍中。今でも時間があれば、家族で海に出て、フィッシングを楽しむ。
レバノン生まれ。1960年にニュージーランドに移住。カフェ、アンティークショップの経営を経て、24年前に不動産業界に入る。過去に販売した家は数限りないにも関わらず、1965年築の現在住むオークランドのEPSOM地区の家から移る事は考えた事がない。その理由はガーデニング雑誌でも取り上げられるほど丹誠込めた庭。5人の孫もいる。
西サモアの両親の元にクライストチャーチで生まれる。史上最年少でネットボールの代表チーム、シルバーファーンズに選ばれ、2002年の引退までに3シーズンでキャプテンを務める。2003年に結婚した元ブラックキャップス(ニュージーランドクリケット代表)のディオン・ナッシュとのおしどり夫婦で有名。ちなみに身長は189センチ。
1969 年オランダ生まれ。ニュージーランド人と結婚し、ニュージーランドに来て、オランダのイン・ドア・スキー場の成功例から、ニュージーランドでも流行るのではないかと思ったのがオープンのきっかけ。ニュージーランドに来るきっかけとなった奥さんは子供の世話が忙しく、経営には一切タッチしていない。
1987年4月クライストチャーチ生まれ。 18歳。6歳の時、ヴァイオリンのレッスンを始め、その後ピアノ、リコーダー、ジャズダンスなどを習う。12歳でデモアルバムを作成し、それが話題を呼ぶ。2000年にユニバーサルNZと契約。2001年アルバム「Hayley Westenra」でNZデビュー。4週間連続1位。トリプル・プラチナム獲得。2003年デッカ・レーベルよりアルバム「Pure」で世界デビュー。好きな国は日本とニュージーランド、刺身がfavourite food。
1978年6月1日生まれ。ウェリントン出身。昨年5月「第1 回NZアイドル」で優勝。ファーストシングル『They Can’t Take That Away』はNZヒットチャートで7週間に渡り第1位。ファーストアルバム『One Road』も2週間1位に。NZ ミュージックアワード2004ではHIGHEST SELLING NZ SINGLEの大賞に輝く。敬虔なクリスチャンのベンは、教会では歌は歌わずに聴いているという。プロ歌手として、ボイストレーニングは週に1度。趣味は映画鑑賞。家で過ごすのが好きで、タッチラグビーやラグビーをして休みの日は楽しんでいる。お酒は、誕生日会や結婚式などの特別な日にだけ飲み、普段は飲まない。好きなレストランはポンソンビー通りの「Prego」。
ウェリントン生まれ。TVNZのニュースキャスターからピーアールへ転身、2002年よりANZFWのメディアを取り仕切る。その人脈の広さ、キャラクター、仕事の完璧さには定評がある。趣味はテニス、ボクシングなど。14歳の息子とご主人と共にオークランドに暮らす。 |